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コルシカ島カルゲーゼ

(2002. 7.28-8.10)

 コルシカ島のアジャクシオ空港では,タラップを降りてターミナルまで滑走路を歩くことになる.何百人もがジャンボ機から降りて,めいめいにターミナルへ向かう姿は,これからバカンスするぞ,という意気込みも感じられて楽しい光景だった.気温はパリとはちがい,夏そのもの.空港のすぐ横は海である.ターミナルでは,すでにサマースクールへ向かう同士が10人以上集まっていた.顔見知りがいなくても,雰囲気からすぐ察することができたかもしれない.用意されたバスにのって,隣に座ったスペイン人と話していると,2週間前に僕のセミナーをドイツで聞いた,と言ってくれた.少し寂しかったパリの一週間から開放された一瞬だった.
 さて,バスは,山道を走り,海岸沿いを走って,小一時間,カルゲーゼの村に着いた.コルシカ島は山が海のすぐ近くにそびえており,まるで三重県熊野市周辺のようでもある.主要道路はかろうじて2車線の細い道路で,それも海岸から50mほど上の崖を切り開いて通したものだ.トンネルこそないものの,この山の高さが周辺の海の深さを物語っている.バスを降りると,研究所の秘書の人が案内してくれることになったが,英語を全然話さない人で,みな会話に苦労する.フランス語ではhは発音しないので,Husa君はウサ君と呼ばれる始末.私が案内されたアパートは,おそらくある家族が夏の間,研究所に貸し出ししたようなところで,僕はドイツ人の学生二人とドイツ人の教授一人と台所他をshareすることになった.部屋に入った瞬間は,暗くてかび臭かったが,窓を開けた瞬間,さわやかな風が吹き込んできた.初日は4人でヨットハーバーまで下りて,そこのピザ屋に入った.Pietraというアルコール度6%の地元のビールを飲んだ.アパートはカルゲーゼ村の主要道路に面していて,夜中までうるさかった.研究所までは片道徒歩30分弱を歩く2週間が始まった.

 「一般相対論の初期値問題50年」と題された研究会(夏の学校)は,50年前に書かれたChoquetBruhat女史(マダム ショケブハ)の論文を記念するために開かれたそうで,彼女ももちろん最前列に座っている.彼女の年齢は,皆の関心のもとなのだが,おそらく70歳以上ということしかわからない.研究所は,講義室の定員が98席であり,参加者は99人に絞られていた.(一人は常に講師だからこれでいいんだそうである).参加するにも履歴書を提出するなど選抜があったことを思い出す.さらに参加確認が1ヶ月に一度くらい必要であった.参加できただけでもラッキーだった.講義は非常に数学的なものが中心で,わかるものが半分くらい.これまであまり知らなかった分野の人の人柄が知れて,その意味では収穫のある研究会である.それにしても,毎度自己紹介をするたびに,「私は数学です」「私は物理です」と分野を明かすのは如何なものか.境界領域に踏み込みたいと思う人間はまだまだ少数派なのかも知れない.
 ヨーロッパの住人は,主催者側から資金的な援助を何かしらの形で受けているらしいが,日本はまだヨーロッパの仲間入りをしていないために,私は昼食のみただ,という恩恵にあずかる.赤ワイン飲み放題である.朝8時45分から始まる講義は,午後4時頃には終わる.日が暮れるのが午後9時頃なので,泳ぐ時間は十分にある.透き通った海は,50mも海岸から離れるとずっと深くなり,これまで見たこともないほどの海の深さを感じることができる.3次元空間を自由に移動しているような感覚は,とても新鮮だった.小さな魚の群も群群していた.海岸では,女性は必ずビキニかトップレスで,特に子連れの女性はほとんどトップレスであった.目の保養にも良いのだが,さすがにカメラを向けるのははばかられる.

 朝は7時に響きわたる2軒の教会の鐘で目が覚める.カルゲーゼ村は,食料品を売るスーパーが2軒,小さなホテルが3軒,レストランが5軒,カフェが5軒,土産物屋が10軒,本屋が1軒,パン屋が1軒,ディスコが1軒の村である.観光客も結構いるが,100人所帯の研究会参加者同士もよく遭遇することになる.夕食のあと,カフェでさらに飲み足す毎日だが,顔が合えばちょいと同席といった和やかなものだった.一度夜中の2時頃に,大音量のジャズがアパートの向かいのカフェから響いてくるので目を覚ました.翌日聞いたと頃によると,カフェの従業員の誕生日だったそうである.
 コルシカ島自体,ホテルの数を制限するなどして大きな観光地化を防いでいるらしい.島全体の容量に合った,適正のリゾート地といった印象を受けた.そもそも2週間,アジア人を全く見かけなかった.研究会には日本人がもう一人(同世代のU君)参加していたが,彼はストイックにホテルにこもってしまうので,あとは韓国人4人(2教授2学生)だけである.研究会中日の日曜日,その韓国人4人がレンタカーを借りてドライブすることを企画し,私を運転手として雇った.なんでもマニュアルの車の運転をしたくないためだそうで,(僕も何年もマニュアルを運転していないのだが),昨年南アフリカで知り合いになったY教授は何故か私を高く買ってくれていて,一日運転手を任せられることになった.
 英語が通じぬレンタカー屋で,なんとかプジョーのコンパクトカーを借り出し,5人はコルシカ島ドライブに出発した.目指すはコルシカ島最高峰の標高2600m地点である.借りた車はディーゼルエンジンで走り出せば調子はいいのだが,出発時は毎度エンストを起こし,一日中僕はストレスだった.乗客は文句一つ言わず耐えていた.海岸沿いから山道に入ると,ときどき野生の豚や牛が道路を塞ぐ.車を止めて休憩すると豚豚は車に体を擦り寄せて車を黒く染めてくれた.景観は林道から岩盤むき出しの川べりへと絶え間なく変わり,2時間弱走ったところで標高1480mの峠に出た.C教授が,近くにそびえる山頂で昼ご飯を取ることを提案,1隊は当初20分くらいかと見込まれたハイキングを開始した.ところが山頂は地図上で2300mと書かれていた場所で,結構本格的な登山になってしまった.途中他の登山客に会うこともなく,1時間半ほどで登頂.晴れ渡った青い空に何層もの山が連なり,久々に登山の汗を拭った.
 その後,ドライブはカルゲーゼの北ポルトの町を目指して海辺に向かった.実はここからさらに急カーブが連なる崖が続き,乗客は歓声を上げていたが運転手の僕は景色を満喫できる状況ではなかった.途中でコーヒー休憩を取った○○は,思いがけず絶景が広がっており,ここに別荘を持つのも悪くない,という意見で皆同意した.

 研究会では,ペンステート時代の仲間が二人来ていた.イタリア人C君とスイス人S君で,彼らとアパートをシェアしているスイス人A君と4人でよく昼飯と夕食を共にした.真面目な物理の話をすることもあったが,大概はばか話であった.節約してアパートで夕食を取るときもあったが,例え食事はパンにチーズとサラミであっても,ワインとアイスクリームは欠かさない連中であった.最後の晩には,村から3km位離れたレストランに4人で出かけた.村に帰る手段をウェイトレスの車でヒッチハイクと目標を定め,注文を繰り返したり,「カルゲーゼはどっちの方向か」と尋ねたりして頑張ったのだが,結局真っ暗な道を4人で歩いて戻る羽目になった.ちなみに4人中3人は既婚であった.

 2週目は海が荒れ泳げないくらいだったが,天気は良かった.2週間が経ち,研究会の参加者はほとんど皆,良い色に日焼けした.日本に帰国して,「本当に研究会に出ていたのか」とか「照り返しで焼けたということにしておこう」とか言われたが,上記のように,真面目に研究会に参加していたことを書き添えて,この,とりとめもない滞在記を終える.

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Last Updated: 2002/8/21
by Hisaaki Shinkai