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相変わらずのローマ

(2000/6/30 - 7/10)

初日,ローマのホテルにて.
 第9回Marcel Grosmann会議のついでのローマ再訪記である. Marcel Grosmannは,Einsteinの友人の数学者の名前で,一 般相対論の国際会議としては3年に一度開かれるもっとも大き な会議である.発表者全員が集録を書けるのが魅力なのだが, なにぶん会議の組織長がイタリア人なので,集録が発行される のが3年後だったり,会議が全然不案内だったりと不満も耐え ないのが常でもある.
 私にとってMGは,94年のアメリカ・スタンフォード大,97 年のイスラエル・エルサレムに続く3回目だ.今回開催される のはローマ.2000年Jubilee(記念祭)をローマで迎えるため か,3年前にはすでにローマ開催はアナウンスされていた.数 ヶ月前からホームページに会議の案内がされていたが,どこに 何時に行けばいいのか,という基本的情報を引き出すのにとて も苦労する作りになってたり,会議の始まる3日前にセッショ ンの入れ替えがあったり,と,なかなか期待を持たせてくれて いる.
 イタリアに来るのは90年の一人旅,95年のフィレンツェで の国際会議以来である.前回は妻と生後9ヶ月の娘と共だった. 町中の人がベビーカーに載った娘をチャオチャオとあやしに来 てくれて,私はとてもうれしかった記憶がある.(注.うれし かった=胸の谷間が接近した.)今回は一人なので,そのよう な恩恵には預かれないだろう.

 出発は,今朝,ステートカレッジの空港からのプロペラ機だっ た.せっかく機内持ち込み可能な小さな滑車付きの鞄を買った のだが,このプロペラ機ではそれも持ち込めない.直前でコン ピュータだけ必死に取り出して膝の上に載せた.ワシントンダ ラス空港で再びプロペラ機に乗り換えてニューヨークのJFKへ. 隣に座ったのはアメリカの高校に一年留学して帰るロシア人の 女の子だった.聞いてもいないのにほとんどずっとアメリカ体 験の素晴らしかったことを語ってくれた.エカテリーナという 名前だが,愛称は略してカティとなるらしい.私は大学でロシ ア語を習ったけど,全然話せない.アルファベットだけ読める ので披露したら,喜んでくれた.
 さて,JFKからはAlitalia航空なのだが,すでにチェックイン カウンターからイタリアなのだった.出発が3時間遅れ,と決 まったらしく,カウンターは騒然.順番を守らないイタリア人 がカウンターに殺到して混沌としていた.係員も仕事を止めて それぞれの人に順を守るようにずっと説得しているので全然列 が進まない.それにしても,彼らの荷物の多いこと.一人一人 が最低2個のスーツケースを抱えていた.出発遅れの代償とし て10ドル分の夕食チケットをくれたのだが,空港にはファース トフードしかなく,10ドル分食べるのはとても苦労した.
 結局機内に入れたのは3時間後.出発は4時間後だったろうか. 隣の人に,友人と席を替わってくれと頼まれて承諾したら,そ の後も席の移動をもう一度頼まれ,結局窓側になった.幸いに もニューヨークの夜景が美しかった.

 ローマに着く.イタリアでは遅れた列車が遅れを取り戻すの に猛スピードを出すのはよく知られているが,この飛行機も2 時間40分遅れに縮まっていた.着陸と同時にイタリア人らから 拍手が起こる.うーん,着陸時に拍手が起きたのは,故障した TWA機が無事にロンドンに着いたとき以来の出来事だ. Alitaliaではいつもこうなのか??荷物もきちんと出てきた. 良かった良かった.

 さて,会議側が指定した旅行会社が手配してくれたホテルの 場所がわからない.買った地図では見つけられなかったので, 本屋で再び探す.地下鉄に乗れば辿り着けそうだったので,自 力で向かうことにする.ところがこれが思ったより大変だった. 聞く人聞く人,自信を持って皆適当な答えをしてくれるのだ. 地下鉄と間違えてトラムに一度間違えて乗り換えてしまったが, それは,トラムの運転手が私が行き先を地図を示して聞いたの に,間違ってsi si(yes)と答えたからだ.
 ようやくたどり着いたホテルは,4つ星とはいえ,単なるビ ジネスホテルのようだった.とりあえず,近くの公園で日没を 見ながら,ビールと軽食.ここのアイスクリーム(コーヒーか き氷)は,苦いコーヒー味が効いていてなかなか良かった.

2日目
 ホテルの部屋は冷房機が壊れていて使えない状態だった.一 度文句を言って部屋を換えてもらったのだが同じだった.多く の部屋で窓が開放されていたので,どこも同じ状態なのだろう. 昨夜は4時頃まで眠れず,断続的にテレビを見る.映りが悪い せいもあり,期待ほどの番組はなかった.
 昨日,眼鏡のフレームを壊してしまったので,一番にテルミ ニ駅へ.地下鉄に乗ろうと思っていたのだが,目の前の妙齢の 女性がバスに飛び乗ったので,続いてそのバスに乗ったら駅に 着いた.フレームも無事に無料で直る.前回ローマに来たとき に行かなかったボルゲーゼ美術館へ向かう.バスがわからなかっ たので歩く.11時頃着くが,入れるのは1時と言われ,そのま ま別の美術館へ.こちらは遺跡ばかりでそれほど感動しなかっ たが,ボルゲーゼ美術館のBerniniの彫刻は素晴らしかった. 人を抱えている手がくい込む様子が人の重さを表現していた. ナポレオンの妹をモデルにした彫刻も美しかった.
 さて,水を飲みつつ,registration会場へ向かう.バスを待 つがこないので,結局全部歩くことになる.registrationは, 始まったばかりだが,すでに長蛇の列.1時間あまりも暑いと ころで並んだ上50ドルも高い料金を請求された.案の定,許せ ない会議委員会である.
 集まってきた日本人家族らは,すでにローマで盗難に遭った り,あいそうになった経験を皆報告していた.アメリカ人の某 教授は,この日バス停で時間を聞かれて腕時計を見ている隙に コンピュータが入った鞄を盗まれたそうだ.

4日目
 暑さと歯の痛みと足の痛みと時差ぼけで数日つらかったが, やっと立ち直る.
 夕方,会議の主催するフォロロマーノのツアーガイドがあっ たので,参加する.ガイドはAndy Macdowellのような女の子 だった.スペイン広場の前で,知り合いのアルゼンチン人とイ タリア人のカップルが,みんなを夕食に連れて行く,というの で合流する.連れて行かれたのは,The dirty worldという名 前の有名なところで,店の人が客をからかってショーにする, という所だった.途中店の場所を聞くと誰もが即座に正しい方 向を指すのが有名どころを物語っていた.私は日本人が一人だっ た,ということもあり,だいぶ使われてしまった.イタリア語 がわからなかったので我々の一行はだいぶきょとんとしていた が,ずっと下ネタだったらしい.雰囲気は十分楽しんだ. 70000リラの食事とは思えなかったが.帰りは見知らぬアルゼ ンチン人二人とタクシーに同乗するが,無事にホテルに着いた.

5日目
 これまで観光らしいことをそれほどしていないので,日本人 連中を振りきって一人スペイン広場へ.目指していた本屋は閉 店後だった.途中変な男に掴まりかけるが振り切る.おそらく 暴力バーの客引きだろう.天津飯店で夕食.30000リラでなか なか美味であった.夜はなかなか寝付けず,ホテルの変更を決 意する.

6日目
 朝,テルミニ駅でホテルを予約する.75ドルでシングルのホ テルが取れた.reconfirmもリミットが近かったので焦る.会 議場の旅行会社の人はアリタリアの電話番号さえ知らず,電話 をかけるためにはテレフォンカードが必要だったり,と結構時 間をとられる.
 今日はBanquetだったので,会場へバスで向かう.途中 Nationale広場で絵を描いている人の絵が印象的だったので2枚 買う.Banquetは,水曜日の仲間と知り合いがいるテーブルへ. 出身の国はばらばらだが,一度は顔を合わせている連中なので 話が弾み,だいぶ遅くまで居残ったテーブルだった.
 帰りのバスは,終バスに近く,偶然同じホテルの日本人,ス ペイン人や台湾人らと一緒になる.昨日の中華料理屋の英語の 通じないウエイトレスも途中から乗ってきて挨拶する.テルミ ニ駅から最終の217番バスに乗る.初日に苦労したホテルへの 道がここで威力を発揮した.私がいなければみんなホテルにた どり着けず,感謝されたことだろう.

7日目
 朝一番に,ホテルの移動.なかなか快適な部屋である.部屋 の鍵が壊れていたけれど.会議は最終日だったが,次回の開催 場所のアナウンスはなかった.ホテルに戻り,昼寝のあと,ト レビの泉,スペイン広場周辺に繰り出す.本屋をのぞき,土産 を求めて銀座の町を歩くが結局何も買わず,再び天津飯店で夕 食してホテルへ帰る.どうもがんばって観光しなくちゃいけな い,という気にならず,中途半端な気分である.またいつか来 るだろうし,焦って買い物をする必要もないし.
 テレビの映りは良いのだが,やはり番組は期待はずれであっ た.真夜中に起きたら「野生の夜に」をやっていたが,寝てし まう.イタリア語でしゃべるロマーヌ・ボーランジェは違和感 があった.

8日目
 土産の買い物を目的に,一日観光の日とする.本当は帰りの 飛行機がこの日に取れなかったのだ.駅で現金を作り,駅の地 下を歩き,結局本屋に入る.地下鉄に乗り三度スペイン広場に 向かう.身動きできないくらい混雑した地下鉄だった.移動し てきたジプシーの女の子3人組に通路を譲るため,3秒くらいポ ケットから手を放した隙に財布がないことに気づく.確証はな かったが,一人の手を捕まえて,「金を返せ」と繰り返した. 彼女は何も言わず,振り向きもしない.鞄の陰で現金を抜き取っ ている最中だったのだろう.周りの人が引いてくれ,即座に床 に落とされた財布を発見.即クレジットカードを確認する.こ んなこともあろうかと紙幣は10ドル相当しか入れていなかった が,抜き取られたようだ.悔しい.と思っていると3人組の3人 目が,あたかも拾ったように現金だけを僕に返して車内を歩い ていった.実害はないし,3人組が犯人とも特定できない状況 だから,警察沙汰にはできない結果だ.ちなみに地下鉄内は直 後,「アテンショーネ,アテンショーネ」と大騒ぎになった.
 日曜だったのでほとんどの専門店は休みであったが,数少な いデパートは開店していたので,土産の財布を買う.昼食時に ビールを飲んだので,疲れが出,ホテルへ戻って昼寝する.夕 方,レストランを求めて,当てもなく歩き回るが,スペイン広 場まで行っても当たらなかったので結局テルミニ駅へ戻る.入っ たレストランは,いまひとつで残念であった.

9日目
 空港へ向かう.子供らに土産を買ったらリラが尽きたので, 昼はバナナで済ます.飛行機で隣に座ったイタリア人は観光目 的らしいのだが,英語が全く通じなかったので会話にならなかっ た.アテンダントのお姉さんはとても美しい人だった.寝たり 起きたりしているうちにJFKに着く.着陸すると拍手がおきた.
 着陸は20分遅れの5時10分.接続する飛行機は7時の予定だっ たので急ぐ.入国審査と税関を通過できたのは5時45分.荷物 のタグがワシントン止まりだったので,修正してもらうのに10 分.ターミナル連絡バスでUnitedのターミナルに着くと6時半. ぎりぎり間に合ったと思ったが,なんと,天候不良のためワシ ントン行きは欠航であった.

 これまで大西洋を往復した2回とも,素直にアメリカに帰国 できなかったのだが,今回もそれが確実になった.(ちなみに 97年のイスラエル帰りは飛行機の故障でアイルランド不時着, ロンドン一泊ニューヨーク一泊.99年のドイツ帰りは,ビザ切 れが発覚してアムステルダムに3泊した.)今回も不可抗力だ が,Unitedの対応が悪かった.欠航が決まってステートカレッ ジにその日のうちに帰れないことが分かったので,ホテルを請 求したのだが,私のチケットを見て担当者は,ここまで私を届 けたAlitaliaがホテルを提供するルールである,とはじめに主 張した.そこでターミナルが9つもあるJFKをのろい循環シャ トルでAlitaliaのカウンターまで戻り(正確には運悪くその日 にAlitaliaがターミナルを移動していたのでJFKを2周), Alitaliaのイタリア人女性係員に「そんなルールは聞いたこと がない」と一蹴され,Unitedの他のカウンターに戻ると,問 題なくホテルをアレンジしてくれた.ホテルのシャトルもなか なか来ない.結局ホテルにたどり着いたのは9時を回っていた. 夕食チケットを15ドル分くれたが,このホテルのレストランは 高級でとても足りるものではなかった.

10日目
 朝一番にJFKのカウンターへ.オーランドに行く,という日 本人の3人組はワシントンまで同じだったが,プロペラ機が珍 しいらしく写真を撮り合っていた.まあ,私も去年初めて乗っ たときは感動したものだったが.プロペラ機の振動にも慣れる と,この位の飛行機のサイズが人間的に思えてくる.離陸前に ウエイトバランス調整のために席替えするのもなかなか妙味が ある.
 飛行機はほぼ予定通りに飛び,ステートカレッジに着いた. ペンシルバニアののどかな風景が懐かしかった.山間のこの町 は,とても涼しく,避暑には最適に思われた.

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Last Updated: 2000/7/25
by Hisaaki Shinkai