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南アフリカ訪問記

(2001. 7. 13-28)

----ダーバン到着まで-----

 一般相対論の会議(GR)の第16回と,それに併せて開かれる数値相対論 の研究会に参加するために,僕は初めて赤道を超える旅をすることになっ た.事前に本屋をいくつか回ったが,南部アフリカに関するガイドブッ クは「地球の歩き方」シリーズしかなく,あとは辺境冒険ものの本か, アパルトヘイトの解説書しか見あたらなかった.「地球の歩き方」には, 至る所で南アフリカ都市部の治安の悪さを解説しており,さすがに僕も 影響されて,やや高級なホテル(といっても三つ星だが)の事前予約と, 空港からの直接送迎を手配することにした.
 予約した航空機は当初シンガポール経由だったのだが,その便がキャ ンセルされて香港経由になり,しかもキャセイ航空のストライキにぶつ かって,香港まではUAの振り替え,と直前まで混乱した.(だが,後で 聞くところによると,僕の払ったキャセイのチケットの値段は他の人の 半額だった.振り替えが効を成したのだろう).初めの行き先は南アフ リカの東海岸にあるダーバンである.香港まで3時間半,ヨハネスブルグ まで13時間弱(ノンストップで10600Km.よく飛ぶなあ),そしてダー バンまで1時間であった.キャセイの食事は,期待しすぎていたからか空 振りだった.映画途中のスナックタイムではあちこちでカップラーメン の匂いがただよいはじめ,結構興ざめ.
 ヨハネスブルグでは入国手続きをした後,いったん荷物を受け取って 外に出て,トランジットの手続きをしなければならない.怪しい人が待 ちかまえている空港内を歩き,さらに現地通貨のランドに換金しなけれ ばならないのが第一関門であった.小走りに歩き,いろいろ振り切って, ほとんど何もない搭乗待合室に逃げ込んでほっとする.さっそく硬貨を 準備し,トイレ番のお兄さんにもきちんと支払う.ダーバン行き 飛行機内でかつてWashU で同じポスドクだったニルスアンダーソンに会う.こいつに女を紹介さ れるのは3度目である.「どこのホテル?」「もちろんヒルトンさ」相変 わらずである.「リモが待っているのか」「まあな」相変わらずである. 空港出口では僕はホリデイインのバンに乗り,ニルスとその彼 女はLimoと書かれたタクシーに乗っていった.
 ダーバンの海岸は,ちょうどビーチフェスティバルの最中で,サーフィ ンや,ビーチフットボール,ビーチバスケットボール,カヌークリケッ トなど,見慣れぬスポーツが多数競われていた.当然デフォルトでビキ ニの若い女性がたくさん歩いていて,私は幸せであった.人が多い故か, 治安も良さそうだ.途中小玉氏夫妻に遭遇する.ただ,フェスティバル の会場以外では,子供がいろいろ寄ってくるので以降歩くのは避けるよ うにした.ホテルの部屋からはビーチが一望でき,ホテルの入り口には 警備員もいるので,中にいる限り安全のようだ.ただしホテルの裏通り の治安は悪そう.会議の主催者が用意するシャトルバスを使う生活が始 まった.バスの運転手も暗くなってから歩くのは勧められないと言う. 会議場から1ブロック離れたホテルにもバスで送迎する徹底ぶりだ.かく して,総勢400人の,異様に出席率のよい国際会議が始まった.

----ダーバンで垣間見た現地の生活-----

 会議の中日,観光用に午後スケジュールが空けられていて,各自が旅 行会社のツアーに申し込むことになった.ほとんどの人は,Zulu高原の 観光ツアーに申し込んだようだが,僕は「Another side of Durban」と 名打たれたタウンシップツアーに参加することにした.ツアーの宣伝文 句には「ツアー終了後,あなたはenlightenedかもしれないし,get angeredかもしれない」と書かれていた.それ以上の説明はなく,パン フレットもない. しかし,これは行ってみなくては,と感じた.PennStateのJacek君も僕 に同調して申し込んだ.ホテルに迎えに来たツアーバスには,全部で10 数人の「同志」が乗っていた.
 参加して説明を受けてから知ったことだが,タウンシップとは,旧有 色人種住居区のことで,アパルトヘイト時代に棲み分けを強要された名 残の場所だ.人種差別が原則なくなったとはいえ,経済状態の格差から 現在でも白人,ガラード(混血),インド人,黒人などの住居はほとん どそのまま分離している.アメリカ・セントルイスでの白人と黒人の棲 み分けを目の当たりにしたことはあるが,ここでは道路を隔てて広がる 住宅のレベルが全く違っており,しかも郊外に行くほど人々の生活もだ んだんとレベルが下がっていく.こちらは際物見たさに参加したようで 肩身が狭くなる気がした.とても道路脇の人々にカメラを向けられる心 境ではない.しかし,驚いたことに,道路脇の人々はみな,我々のミニ バスを見つけると手を振ってくれた.一人がバスを見つけると周りにも 声をかけ,みなが手を振り出すのだ.タウンシップ出身のガイドによれ ば,彼らは自分たちの生活を見に来てくれた我々を歓迎しているのだと いう.自分たちの町に来てくれた客を.
 もし白人やアジア人が,彼らのタウンシップに住むとしたら,それこ そ彼らの誇りなのだという.タウンシップを歩く,どこか場違いな一行 を,現地の人々は金をせびりに来ることもなく,歓迎一色の応対なのだ. アパルトヘイトが,実に白人からの一方的な政策だったか,アフリカの 土壌が培ったおおらかな人々の寛大さにただ敬服するばかりだった.ツ アーは結局,タウンシップの占い師宅を訪れ,マハトマガンジーの住居 跡を訪ね,最後にタウンシップのバーを訪ねるだけであった.払った代 金から考えると,get angeredかもしれない.しかし,バーで披露された, 小さな子供たちの踊るZuluダンスと,若い男たちのモダンダンスは,手 作りながら彼らなりの努力が感じられ,訴えるものがあった.
 実は,その翌日,現地の教授が自宅に夕食を招待してくれた.何でも そろった,広い邸宅で開かれるパーティーは,アメリカの生活に劣るこ とない素晴らしいものであったが,たった前日に見させられたother side of Durbanの人々の生活を考えると,複雑な気持ちになった.決して何か を期待して南アフリカを歩いているわけではなかったが,滞在数日目に して得た衝撃はかなりのものだった.

----治安-----

 「現地国民にとって,外人とは金をぼるために存在する」と断言した 人がいる.なるほどそうかもしれない.そうでなければ観光客など歓迎 されないだろう.だが,ヨハネスブルグとケープタウンの町は,外務省 から危険地域勧告がされているほど群を抜いている.南アフリカの都市 部はすべてそうらしい.
 やはり会議参加者の中にも被害者がいた.人通りの絶えた週末の午後5 時過ぎに,ヨハネスブルグの町を一人で歩いた大胆な日本人.彼はいき なり10人位に囲まれ,銃を突きつけられ,眼鏡を割られ,すべてを取ら れたそうである.目の前の教会に逃げ込んで命は助かったが,パスポー トの再発行やビザの再申請に結局出国予定の前日までかかっていた.金 を惜しんでヨハネスブルグからダーバンまでバスで来ようとしたのが敗 因だった.明らかに非は彼にあるのだが,現地の日本領事館は,そんな 状況の彼に金を貸すほど親切ではなく,真っ先に領事館宛に送金を誰か に頼むように指導したという.領事館の威圧的な態度はどこも同じ.あ くまでも役所的なのであった.

----ケープタウン-----

 さて,ダーバンの会議の後,次の研究会まで3日の空白があったので, 僕はケープタウンに一人で出かけた.アメリカ資本に投資するのを避け て,現地人の経営するホテルを手配したのだが,これがなかなか侮れな かった.空港に迎えに来たタクシーはメーターがないし,勧められたツ アー会社は6人乗りのバンでやってきた.どちらも初めはどうなることか と思ったが,特にぼられることもなく,何とかなった.ツアーは融通の 利く人数だし,同行者とも仲良くすごせた.ただ,みんな有閑な旅行者 たちだったので,僕が「会議で来ている」と説明しても,単なるexcuse だと解釈して決して信じてくれなかったけれど...
 ケープタウンの町から,喜望峰(cape of hope)へ向かうツアーは,途 中アザラシのいる島巡りの船とペンギンのいる公園を経由した.実は喜 望峰は単なる岩山に過ぎず,その先にはケープポイントという,もっと 標高の高い半島の先端があり,灯台があるのだった.インド洋と大西洋 が合流する地点で昔から遭難が絶えないらしいが,本当のアフリカ大陸 の南端はもう少し離れたところにあり,灯台からはその半島が遠くに見 渡せた.ツアーは帰りに植物園に1時間立ち寄った.植物にはあまり詳し くないのだが,数Kmのトレイルルートがあり,安全な場所で久しぶりに ほっとできる所だったので,翌日はそこでずっと過ごすことにした. ケープタウンのシンボルであるテーブルマウンテンは,グリンデルワルド から眺めるアイガー北壁を思い出させた.観光ルートを離れて山道を歩く ときはいつも,安堵感をかみしめ,自分らしさを再確認する.
 植物園まで頼んだタクシーは,普通の自家用車でやってきた.ツアー コンダクターらしいが,仕事がないらしく,植物園往復とテーブルマウンテン 周回,と結局一日つきあってくれた.さらに翌朝5時半の空港送迎も 引き受けてくれた.

----アフリカの冬-----

 7月は冬である.非常に寒い.2週目に開かれた小さな研究会は,ヨハ ネスブルグから車で1時間半ほどのそれほど大きくないサファリパーク (ゲームリゾート)で開かれた.用意された部屋は一部屋ずつ独立した わらぶき屋根のコッテージで,朝は凍えた.食堂の外には鹿やダチョウ が来て,我々の食事を奪っていった.会議室の横の池にはカバがいて, 危険なので立ち入らないように,と警告があった.
 研究会の中日には,洞窟巡りと動物探しのツアーがあった.ただ,午 後の動物探しよりも早朝の方が良い,と言われ,私を含めて数人は早朝 に別に動物探しのツアーに参加した.これは正解だった.トラックの荷 台に椅子がつけられ,日の出を見ながら毛布にくるまって2時間ほど走る. 途中で見られた動物は,鹿・ダチョウ・キリン・シマウマ・バッファ ロー・サイ・猿・オリックス・(檻に入った)ライオンなどだった.冬 の枯れ草色の中では,どの動物もあまり映えなかったが,ガイドの説明 は丁寧だった.シマウマの雄と雌の区別の仕方も教わった.雄は白地に 黒の縞であり,雌は黒地に白の縞だそうである.
 驚いたのは,よく火事の煙を見たことだ.道路際でも乾いた草が引火 して,もうもうと煙を立てているのをよく見た.現地の人は,燃えるに 任せているようである.ゲームリゾートのガイドは,火事の延焼を防ぐ ために一部草を刈り取っている,と説明していた.
 夜は星空がきれいだった.蠍座が天頂にあり,南十字星が見えた.そ んなにすっきりとした十字ではないのが意外だった.朝はオリオン座が 逆さになって見えた.風呂の水も反時計回りに渦を巻いて吸い込まれて ゆく.南から寒い風が吹き,日陰が南側にできる.南半球ならではなの であった.

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Last Updated: 2001/7/28
by Hisaaki Shinkai