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セントルイスの2年9カ月を振り返って [研 究編]

(1996.11.4-1999.7.31)

ワシントン大学のポスドクとして96年11月にセントルイスにやっ てきて,早いものでもう2年9カ月が経った.この間に感じたアメ リカ生活での印象は,時折文章にしてきたが,今回はセントルイ スを去るにあたって研究面で感じたことを書き留めておきたい.
一言で言えば「苦労した」となるだろう.日本のポスドク制度と アメリカのそれとは全く違ったのだ.僕の場合,いろいろ事情が 悪化して,最後は日本の同業者に同情されるほどだった.

日本では学位を取った後,日本学術振興会や研究所が支給する研 究奨励金を給料として数年間をポスドク(post doctral fellow)と して過ごす.数年後に大学のスタッフとしてその後の給料が保証 される職にありつくか,または研究職をあきらめるかを決める期 間とされている.この間の研究内容は,全くの自分の責任の下で 行われる(少なくとも僕の研究分野[理論宇宙物理]では.以下同 じ).先見性のある仕事をしていれば,研究する大学の助手にな れるし,論文数があれば教育する大学の教員になれるだろう.学 位を取ったばかりでも独自の仕事ができるのは,個人が研究計画 を個別に申請して研究奨励金を獲得している事実が背景にある.
アメリカでは,大学院生になった時点から大学から給料をもらっ て研究を進める.正確に言えば,その給料は学生の指導教授が政 府なり企業なりから獲得してきた予算を使う.ポスドクも同じ仕 組みのようだ.つまり,予算を獲得できない教授は,学生もポス ドクもとれない.直接的な言い方をすると,「雇えない」ことに なる.逆に言えば,「自分が学生やポスドクを養ってやっている」 という意識が教授の根底にあることになる.
そのため,「自分の指示する研究をやれ」という教授側の論理は, ある程度容認されることになる.学位を取るまでの学生は,100 %この論理の下に研究を行う.結構,自由放任主義の大学院時代 を過ごした僕から見れば,こうした学生の指導方針は過保護に思 えないこともないが,この業界では(どんな形であれ)学位を取 るまでは一人前と見なされないのだから,まあ良しとしよう.問 題はポスドクがどう扱われるか,だ.ポスドクは独自に研究を進 めていけるのか,それとも教授の指示することに従わなければな らないのか.

セントルイス時代の僕の困難は,この認識の違いが発端にあった. 僕のボスは,「養ってやっている」意識の強い人だった.それで も,彼の指示する研究に,先見性や独創性があって論文の書ける ものなら問題なかったのだが,残念ながらそうではなかった.運 の悪いことに,彼は多額の予算を持ってはいたが,その研究テー マに対する経験が明らかに不足だった.世界の研究の現状にも疎 かった.
そんな現状は,セントルイスに来るまで全く知らなかった.多く の論文を量産している人だったので,ポスドクに採用されたとき は大きな期待を持って渡米したのだ.ところが,研究を初めて数 カ月経った頃から「どうもおかしい」と感じられるようになった. いろいろ情報を集めてみると,どうやら彼は単なる大きなグルー プを組織しているだけで,ブレインは隣りの大学にいたらしい. そのブレインは自分の学生を引き連れてドイツへ渡った直後だっ た.僕のボスはアメリカ・ドイツ共同研究グループと名打って, さらに大きなグループの長ならんと画策しているようだったが, それは片思いで,ドイツ組は独立経営に乗り出している感じがう かがえた.

セントルイスに来てから一年後には,僕はボスの研究計画の稚拙 さに公然と抗議していた.独自に論文のネタを10個提案したりも した.しかし,彼にはそれらが受け入れてもらえなかった.ポス ドクの僕には,1本でも論文を書くことが重要なのに,ボスとし てはグループが10年後に存続できること,の方が重要だったらし い.僕と同じ身分のポスドクは他に二人いたが,彼らは保身的で, 僕の側には付かなかった.

セントルイスに来てから2年後の夏,僕は意図的に一つの事件を 起こした.一人で論文を投稿し,掲載決定になった時点でボスに 報告したのだ.それは,彼の指示する研究テーマに関連すること だったが,発案も実際の計算も結果のまとめも総て僕一人が行っ たものだった.その研究経過は毎週のグループミーティングで逐 一報告していたのだが,ボスからも同僚からも内容に関する建設 的な意見はまったく得られなかったので,個人の論文と判断した のだ.短い内容だったので,速報程度にまとめ,後に長い論文に まとめる際にも問題にならないようなセクションに投稿した.レ フェリーは好意的ですぐに受理された.そして初めてボスに(彼 は国外に滞在していたので)電子メールで報告したのだ.
ボスは直ちに「グループとしての秩序を守るため」に「掲載を辞 退するように」と命令してきた.自分の指示に関連する論文の勝 手な出版は許さない,という意向だ.僕は自分の行動が正当であ ることを主張し返した.平行する意見交換が続くうちに話はだん だん大きくなり,研究姿勢に関することにまで応酬が発展した. すべては電子メール上での議論だったので,僕は周囲の同僚にも 全文配信サービスをした.皆,中立・不干渉の立場を取ったが, 「出るべくして出た喧嘩」との認識は誰の心中にもあったようだ. およそ1カ月の電子メール交換の末「このまま出版を求めるなら, 私のアイデアを盗んだ,とこの業界に喧伝せざるを得ない」との 筋違いの脅迫文に負け,僕は出版の「延期」を編集者に頼まざる を得なかった.この間の,妻の英作文協力に改めて感謝しておき たい.

この事件の後1年間は,僕とボスの間は非常にぎくしゃくした関 係だった.必要最小限の会話しかなかった.僕は,彼の指示する 研究テーマとは全く別の研究をアフター5に,日本の友人と電子 メールで続行した.こちらは順調だった.明らかにボスは,僕以 外のポスドクと密接に研究を進めていた.テキサスで研究会があ るときも僕には知らせずに皆で出かけたり,僕の発案だった研究 を勝手に僕以外で進めるなど,いくつか許せない事件を起こして くれたが,僕も次の職を見つけるのに必死だったし,所詮あと1 年,という最初の契約期限が近かったので抗議なしで済ませた. ポスドクに応募する場合,通常3人の教授の推薦状が必要だが, 僕は日本での指導教授と僕の事情を知る2人の教授にそれらを依 頼せざるを得なかった.

幸い日本学術振興会から次の2年のポストが提供され,それを受 けることにした.後から別の大学からポスドク職のオファーも来 たが,「自由な」日本のポスドクを味わいたい気持ちの方が強かっ たので即座に辞退した.これが結果的に「ビザ獲得への長い道の り」の始まりだったのだが,その話はここでは繰り返さない.

セントルイスを離れるに際して,この間の仕事ぶりをまとめてみ ると,「論文8(内,投稿中2),国際会議発表9,研究会発表 4,学会発表4,翻訳1」という結果になった.この中にボスと 共著の論文は1つもない.孤立した状況の中ではまずまずの成果 だと自負している.正確には書きかけた共著論文があるのだが, 先方から回答が来ない状態である.この論文にもはや未練はない. 先の「延期」論文は,引越と同時に「延期解除」を編集者にお願 いした.秋には出版される予定である.

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Last Updated: 1999/8/26
by Hisaaki Shinkai