【重力物理】新説「ブラックホールは存在しない!」騒動

2007年6月21日の読売新聞で,『「ブラックホールは存在しない」米物理学者らが新説』という記事が掲載されたらしい.このニュースの重要性について,ある方から問い合わせがあったので,その回答をここにも記しておきたい.

読売新聞の記事はすでに削除されているが,次のような内容だったようだ.

巨大な重力であらゆる物質をのみ込むとされる宇宙の「ブラックホール」について、 米オハイオ州の名門ケース・ウエスタン・リザーブ大の物理学者らが「存在しない」という新説をまとめた。(中略) 新説は、新たな計算により、物質の流出が星がつぶれていく途中にも活発に起きるため、 ブラックホールになり切れないと主張している。それでも複雑な効果により、 外から観測した場合はブラックホールがあるように見えるという。
新聞記事の最後は,よく分からない文章になっているが,これは一般読者レベルでは無理もないことかもしれない. 記者は,おそらく,Case Western大学のプレスリリースを知り,これは面白いと思って報道したのだろう. 発表された論文は,
T. Vachaspati, D. Stojkovic, L. M. Krauss, "Observation of Incipient Black Holes and the Information Loss Problem" gr-qc/0609024, to appear Phys. Rev. D.

主張が衝撃的だったのでニュースに取り上げられたのだろうが,表現は, おおもとのCase Western大学のページが元凶だと思われる. このプレスリリースの中の, "If you define the black hole as some place where you can lose objects, then there is no such thing because the black hole evaporates before anything is seen to fall in," said Vachaspati. がキーで,普通はこのようにブラックホール(以下BH)を定義しない. 結論から言うと,この論文の主張は,限られたモデルで,限られた座標で,限られた観測者時間での議論にすぎないので,大騒ぎするのに値しない.

論文の概要は,次のようである.

massless scalar場をdomain wallにして球対称崩壊させたとき, Schwarzschild座標で無限遠の観測者にとってどう見えるかを考えると, モノがBHのhorizonを超えるのは無限の時間がかかる. そこで,Hawking 輻射のように,量子的にエネルギーがBHから飛び出すような過程を考えると,こちらは有限時間(といってもかなり長時間だが)で出てくる.ブラックホールを「モノを失ってしまう境界」と定義すれば,ブラックホール自体が形成されない,と言うこともできるのではないか.

一般相対性理論でのBHは,ふつう「光さえも出られない,外側の時空から因果関係が隔離された時空多様体の一部」として定義される.Schwarzshild解(球対称静的なBH解)では, Schwarzshild半径 r=2m の所でsingularになるので,多様体の議論をするときには, Kruskal座標のようなnull座標を使う.そうするとr=2mを通過する物体の議論ができ, 情報が有限時間で一方向にのみ伝わっていくことが明瞭に分かるからである. また,
「Schwarzschild座標で見ると,モノがブラックホールに落ちてゆくのに,十分遠方の観測者にとって,無限の時間がかかる」
というのは,一般相対論の教科書にも記されていることであり,今回の論文で初めて明らかになったことではない.

論文では,古典論と量子論と半古典近似を並べて,ダイナミクスを 議論しようとしているところはきちんとしているが, 座標系の取り方に依存する結論なので,彼らの主張は, 一般的なステートメントにはならないのである.

新聞記事の「複雑な効果により...」の部分は, 論文の展開としてはもともとSchwarzshild座標を使っているので, Birkoffの定理により,中心に質量集中とBHホライゾンの存在を仮定して議論していることになり,結果的に BHの存在を前提としていると解釈することもできる,ということである. だから,普通の意味でのBHは存在する.ご安心あれ.

そもそも,プレプリントから1年近くもかけてPhys. Rev. Dに掲載決定になるのは,refereeともめた証拠である(少なくとも3往復はしているはず) . gr-qc も version3 である.著者が掲載決定になったことをたいへんに喜んで,プレスリリースを出したい大学広報部に持ちかけたのだろう.

この論文の動機は,BHにおける情報パラドックス(information paradox)である. Hawkingは,BHを孤立系と見て,熱力学とのアナロジーを考えることにより,BH熱力学を提唱し
「熱力学的エントロピーに対応するものが,BHの表面積」
「温度に対応するものが,BHからの量子的粒子輻射」
と対応させた.後者はHawking輻射と呼ばれる.この輻射があるということは 正のエネルギーが外側に放出されているので,逆に負のエネルギーがBHに落ち込む. ということは,BHがいつかは蒸発する,と発表して,世界を驚かせた(1972年).

BHが消えてなくなるとするならば,BH形成で増えているはずのエントロピーは,どこへ行ったのか,という パラドックスが発生する.Hawkingの主張はここまでで,解決策はまだない. 先週のGRG18国際会議でもPenroseが,「BHが消える瞬間に大爆発でも起こして,エントロピーが巻き散らされるのではないか」,といういい加減な意見を一般講演で堂々と言っていたし...物理の最先端は,結構いいかげんなこともある.